「希望を手放す」

先日、コチラのブログで書きました。

「大きな野望でも持たないとダメって言われている気がして疲れてしまう」
人それぞれなので、大きな夢や野望を持っている人を否定するつもりはありませんが、
私がこのように思ってしまう心理には、次のような想いがあるからです。

気付いている方も多いかもしれませんが、
「頑張れば必ずしも全てのことが上手くいくとは限らない」
努力が足りないという見方もあるでしょう。

でも、それだけではないとも思うのです。

自分が為すべきことではない、
的外れなところで力入れてみても、
それは空回りするばかりになってしまうのではないかって。

もちろん空回りしても、頑張ったということには大きな学びがあると思いますが。
(実はこれ、私が空回りを繰り返してきたからこそ言えることなのです)

では、それが的外れか的外れじゃないかをどのように判断したらいいのでしょう?

その答えが、ここ↓にありました。

ムビラプレイヤーの実近修平さんから教えて頂いたガンガジという人。
希望を手放す

希望を手放したときに、自分が生きている意味に気付けるというもの。

******以下、私なりの解釈、意見など。*******

”希望”は子供にとっては未来に関わる必要不可欠なもの、
しかし成熟した者にとっては悪魔のようなもの、
何故なら”希望”は執着へと引きずり込み、
『今ここ』(今ここに在る現実という意味?)から剥離させるから。

時には、現状に留まることは怖いことであったりもする。

現状を変えていきたい、またはこのままでいたい、と思うこと=”希望”を持つということ、
その”希望”を手放すこと=絶望、
の場合があるので。

”希望”は多くの場合、誰か(何か)との関係性の中に起こるもの。

例えば、あなたと私、または世間と私、宇宙と私、といったような。

○○さんと恋人になりたい!
有名人になりたい!
現状をキープしたい!
という”希望”を持つことは、自分自身及び周囲に自分の理想を押し付けること。

そして、思い通りにならないといって絶望する。

ガンガジは、このような”希望”も”絶望”も全て手放すことを説いています。

どちらも実際に存在しているものではなく、
(愚かな)自分が作り上げた(自分自身が充足するための)物語の中にあるだけのものなのだから、と。

これら(自分が愚か者であること)に気付けるのは、成熟さが輝くほんの一瞬のこと。

成熟した者であるなら、気付けるはず。

「何一つ、自分の思い通りになんてできない」
と気付くことが成熟であり、
ここに、真の解放があります。

真の解放の次に、”責任”が現れますが、
それは今まで私たちが考えてきたような”責任”ではなく、
違うところから感じ取れるもの。

希望も絶望も価値観も全てを手放したとき、
自由で愛そのものの静寂が訪れます。

そこで、何か心に触れたものがあれば、それが自分の存在の意味です。

それが良い、悪い、と解釈するのはやめましょう。

なぜなら、その解釈は思い込んでいる価値観から起こるものだから。

「こうあるべき」「こうであってはいけない」などの。

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最近、周りの流れが予測不能に勝手に動いているので、
心に触れるものに導かれるように、この流れにのっていってみよう、
と私が思っているのは、あながち間違っていないのかもしれません。

そしてそれが間違っているのか、正しいのかなど考えなくてもいいのかな、
と教えられた気がしています。

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ライター・校閲、メンタル心理カウンセラー、ムビラ弾き♪
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