3月初め、ヒロシマに赴き、
part2~part4でご紹介した「ヒロシマの母の遺産」の著者、石田明さんの実姉、文子さんへのインタビューを実現してきました。
石田明さんは、
お兄さん、姉の文子さん、石田明さん、妹さんの4人兄弟です。
原爆投下時、文子さんは20歳で、小学校の先生をしていて、爆心地から7キロほど離れた職場である戸坂(へさか)で被爆しました。
また、大量の放射能をあびた被爆者の看護にあたったので、被爆者から発せられる放射能をもあびたと思われます。
ご自宅へ伺ってのインタビューでした。
元々丈夫だったことが幸いしてか、文子さんは現在89歳、とってもお元気で温かくて素敵な方です。
このインタビューは、文子さんが体験した、文子さんの真実です。
※1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。
何故、広島に投下されたかというと、アメリカが原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8キロメートル)以上の市街地を持つ都市の中から投下目標を選び、広島、小倉、新潟、長崎が候補に選ばれ、その中で唯一、広島には連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたからということです。
「32年くらい教職をしていたので、その縁で知り合った方たちとの交流が今でもありますからね。それが私の励ましになっていますね」
――それは大きいと思います。人からの愛情というのは大きなパワーになりますよね。
終戦を告げる昭和天皇による玉音放送
Contents
勝つまでは我慢するんだよ、というのが、家でも学校でも言われていました
――当時の生活について伺いたいのですが。
「お蔭様で89歳にもなれば、子供の頃から戦争でした。
日清戦争があって、最後は16歳の時に大東亜戦争(太平洋戦争)でした。戦争の中で育ったという感じでした。
農家をやっていたので、食べるものはまあまあそれほど困るということはありませんでした。
でも、農家だったから野菜はあるとは言っても、町よりはあるというだけで、まずは兵隊さんにあげて、本当に必要な分だけを残して、今月はこの米だけでやりなさいといわれたら、どうにか量を増やすようにいろいろ入れて、親は我慢して子供に食べさせて。
今のようにあれが食べたい、これは食べたくないなんて文句をいうことはありませんでした。うさぎ狩りをしたんですよ。食べるために。
物の不自由さもありました。全部、軍のほうに回さなくてはならなかったので。
品物がない時代でした。全部配給制で。教科書なども、上の年の子が使ったら年下にあげるという。ボロボロになっても。
靴も配給制ですから、穴が開いても買うことができません。そしたら田舎だから草履を作ってもらって、雨が降ったら下駄ですね。
食べるものも配給制で、衣類も配給制でした。女の子でも男の子の服を着て、小さくなったら母が自分の着物を使って継ぎ足して。
母は持っていた着物を全部、子供が着るものに使いました。ミシンはなかったので、全部手縫いで。自給自足でした。靴下は穴があいたら繕って。
穴があいた服もつぎはぎして。最近ではわざとそういう服を着るようですが」
――破れたジーンズなど、履きますものね。
「うちらは当て布というか、破れたところを覆って縫い付けて、それが当たり前でした。
華やかな色は使わず、地味な色ばかりでした。
カーキ色とか、男性は詰襟ですね。
とにかく生きるということでしたね。勉強も、勉強よりも働いて生産する。農繁期には学校が一週間くらい休みになったんです。男は戦争に行っているので女と子供だけなんですが、女の子でも高学年になれば力がありますからね。
(戦争に)勝つまでは我慢するんだよ、というのが、家でも学校でも言われていました。
でもあれだけ不自由なのに、不足を言ったことはないです。
今のように、これも買ってあれも買って、なんていう子どもはいませんでした。
みんな心をひとつにして、“勝つまでは”と、我慢していました」
原爆ドーム
(お菓子とお茶を出して頂く)
――当時はお菓子など、甘いものはありましたか?
「ないですよ。おやつと言っても、生のイモやニンジンなどをかじって」
(石田明さんの著書を頂くことになり)
「資料館(広島平和記念資料館)に行って、“石田明”と検索して頂けば、出てくると思います。教師をやっていたので、呼ばれて講演もやっていたんです。(著書の)内容の様なことを話していたんではないかと思うんですが」
――第一章が「母とわたし」になっていますが、お母さんも被爆なさったんですか?
「(原爆投下後の)市内には入っていますね。親戚を探しに」
印が爆心地。爆心地と広島駅の間にお兄さん、弟さんが被爆した「八丁堀(はっちょうぼり)」、中央に文子さんがいた「戸坂(へさか)」、右上が実家の「狩留家(かるが)」
原爆が落ちた日
――原爆投下時のお話を聞かせて頂けますか?
「あの時は外で朝礼をしていました。
夏休みでもあの頃は学校に行っていて、高学年の生徒たちが馬の飼料のための草を刈りに行くというので校長先生がその注意を話していたんです。
落ちた時は、耳と目を押さえて、その場に伏せました。「伏せ!」という号令で、伏せる訓練を日ごろからしていました。
近くに防空壕があれば入る、なければ耳と目を押さえてその場に伏せるんです。耳は大きな音で聞こえなくなってしまうかもしれないし、目は爆風で飛び出る危険があるからです。
教室だったら、机の下に入るのですが、外だったので。
防空壕に入れる者は入るのですが、私たちは入る余地がなかった」
――落ちた時のキノコ雲というのを写真でみましたが、あれはご覧になりましたか?
「いえ、みてないです。
子供たちのことが気になっていたので、キノコ雲はみていないんです。
兄と弟も電車の中でしたから、みていないと思います。二人は八丁堀というところにいて、近すぎたというのもありますし。
不思議なことに兄も弟も無傷でした。
よく生きられたと思うんですけどね。無事だったというので、私も喜んでいたんですが。でも傷は負っていなくても駄目でしたけどね、その後、症状が出ましたので。
兄と弟は同じ電車の中でした。二人は宮島に祈願に行こうとしていたんです。母の帯で縫った袋に軍刀を入れて持って。当時は一人が一機に乗って、敵にぶつかって爆破するという攻撃をしていました。弟もそこにいて。後から考えれば、家族に別れを言いに来たのかもしれません」
――特攻ですか?
「そうですね。
二人は八丁堀から戸坂(へさか)まで来ました。私は当時戸坂の学校におったんです。
弟は自分で志願して兵隊になって、軍刀を持っていましたから、『兵隊さん助けて』って、たくさんの被爆者の方がついてきていたんですね。その方たちを戸坂に向かう途中の家に頼んで、預けながら、二人で私に無事を知らせに来て、家に帰る途中で弟が嘔吐して倒れたんです。
弟は一晩、近くの家に置いてもらい、兄は親に報告するため先に帰って、翌日迎えに来るからってことになったんですね。
私は(職場の)小学校から被爆者の方たちの看病で10日間くらいは戻れませんでした。患者さん(被爆者)たちの傷口の蛆をとってあげたり、水を飲ませてあげたりしていました。便所に連れて行ってあげたり。
電車の中で被爆した兄も弟も、すぐには症状が出なかったんです。
何日かして髪の毛が抜けて、血の斑点が出てきて、歯茎もどす黒くなってきて。弟は嘔吐したことで毒が出たのかもしれません。
兄はその後、1カ月ほどで亡くなってしまいましたから」
――落ちた時には、「原子爆弾」だということはわかっていたのでしょうか?
「いえ、全く。
今のような情報はまるでなかったので」
――では、「どうしたんだろう? 普通の爆弾とは違う」という感じでしたか。
「それもないです。とにかく教室も壊れてしまって、天井も落ちて、ガラスも割れていて、預かっている子供たちを早く家に帰さなければということでいっぱいでした。
子供たちもあの後、歩いて家に帰っているんですからね。放射能とかいう情報はなかったもので。今考えれば恐ろしいことです。
戸坂は逃げてきた被爆者が初めて、入れる建物があったと思う場所だったんでしょう。そこまでの道のりにある建物はメチャクチャだったでしょうから。
逃げている道中の家で入れるところには入ってもらって、その家の人は世話をしたそうです。
田舎の家だから、母屋のほかに納屋があって、その間に土間があるんですが、茣蓙をひいてでも寝てもらって、目の前で倒れている人を放ってはおけませんから。
入れるところには、被爆者の方が這うように入っていって、屋根のあるところは、学校の渡り廊下もどんどん人でいっぱいになって。その方たちがどんどん亡くなっていって、死人(しびと)の山がどんどん増えて行って。
水を飲ませてはいけない、という話があったのですが、どんどん亡くなっていくので、もう飲ませてもいいということになって、お湯を冷まして飲ませてあげるのですが、本人の手では飲めないんです。火傷で皮膚がぶらさがっているような状態で」
――資料館で見ました。
「そういう状態の人が、ぞろぞろ歩いてくるんです。
歩けなくなって、そこで休む人が増えて、寝る間もないほど看病して、家族が迎えに来てもわからないんです。みんな真っ黒で、目だけぎょろぎょろしていて。だから教室に入ったら、どこの誰さんと呼びなさいと言いました。
着ているものもみんな配給制の同じものなので区別がつかないし、顔を見てもわからないんです。まだ返事ができるのはいいほうで。
看病して元気になってくれるのならいいのですが、次々に亡くなってしまって。
「お姉ちゃん、水……」「お母さん、水……」
と、私はお姉ちゃんになったり、お母さんになったりしながら、口に水を含ませてあげて。
起きることもできないのでね。一旦、横になったら、ぐったりしてもう起きられなくなってしまう。気を抜いたらダメなんですね。
今でこそ言えますが、当時は20歳でしたが、男性が便所に行くのも手伝いました。あの頃はみんなボタンなんです。チャック(ファスナー)は戦後のものなので。火傷で手が使えないので、ボタンをはずすのを手伝ってあげました。よく出来たなと思います。でもなんて言っていいのか、恥ずかしいだのなんていうことではなくて……。
まだ手が使える人はいいんです。
夏だったので、肌が出ていたんですね。服を着ている部分はいいとしても、肌が出ている部分はみんな火傷してしまって。上半身は一枚しか着ていない状態でしたので、上半身はもう火傷で。
今で言ったら高校生くらいの男の子だったと思うのですが、
『お姉ちゃん、仇をとってね』
と言われたのが忘れられないんです」
――仇というのは敵に勝ってね、という意味ですか?
「そうですね、自分がやられたのは分かっていたと思いますから、相手をやっつけてね、という意味だったと思います。
10日くらいでやっと教室があいてきて、夏休みだったので、授業らしいことはしないで、飼料の草を刈ったり何らかの形で働いていました。
気が利く子は竹でピンセットみたいのを作ってきて、蛆をとってあげたり。
普通だったら、見るのも嫌だと思うのですが。みんなが必死でした。せざるを得ないところに追い込まれたというか。
近くの学校も大変でした。焼け野原といいますが、全部焼けてしまって。弟も逃げてくる途中で出会った焼けただれた母親など、助けられなかった被爆者のことをずっと残念で仕方がないと言っていました。
連れてこられる人は連れてきたというんですが、もうどうしようもない人たちもたくさんいて。
地獄を見たことはないのですが、生き地獄ですね」
原爆ドーム
福島の原発事故があって、今あらためて思い知らされているというのがあります。
――あれが原子爆弾だと知ったのはいつでしたか?
「今のようには情報は入ってこないし、今は福島の件についても住民は避難していますが、私たちはずっとここに住んでいて、当時は夏休みもずっと学校に通っていましたし。
あくる日に、家族を探しに市内に入っている人もいましたし、立ち入り禁止になるどころではなかったです。
こんなことは二度とあっちゃいかんという気持ちはありましたが、あんなに恐ろしいものだったなんて、ずっと知りませんでした。
認識不足だったというか。それこそ、初めてのことでしたし。
知っていたら、ここにも住んでいられなかったと思うし。知らんほど強いものはないというか、避難しろというのもありませんでしたし。
福島の原発事故があって、今あらためて思い知らされているというのがあります。
あの頃は知識も何もなくて、避難しろとも言われず、誰も助けにも来てくれず、みんな自力で再建しましたから」
――それは他では原子爆弾が落ちたと知っていたから、誰も手伝いにこなかったのでしょうか?
「終戦して、他も混乱していて、それどころではなかったのだと思います」
平和記念公園の慰霊碑
何と言ったらいいかわからないのですが、悔しいというか、どうしたらいいのかわかりませんでした。
――終戦になった時、どうでしたか? 敗戦したと聞いて……。
「そうですね、切り替えが……。
玉音放送という天皇陛下の放送(昭和20年/1945年8月15日正午のラジオ放送)があった時には、それまで軍国主義の教育をしてきた教師たちは机を叩いて、心の中の葛藤を追い出しました。泣きながら、何と言ったらいいかわからないのですが、悔しいというか、どうしたらいいのかわかりませんでした。
教科書に書かれているアメリカを敵視するような箇所はみんな墨で消しました。
どの学校にも奉安殿(ほうあんでん)というのがあって、教育勅語(1890年(明治23)10月30日に発布された,教育の基本方針を示す明治天皇のことば)と天皇陛下の写真が入っていたんです。式の時にはそこから校長先生が私たちが頭を下げている間、白手袋で教育勅語を持って式場に行くという儀式もありました。奉安殿は校庭に入ったすぐのところにあって、小さい頃、私たちは毎日、奉安殿に礼をしてから教室に行きました。
二宮金次郎の像と奉安殿はペアでどこの学校にもあったんですね。
戦後は天皇陛下の写真が飾られていたのも、はずされました。
奉安殿も、どこの学校からもなくなりましたね。二宮さんが残っているところはありますが」
橋の上からの原爆ドーム
あのなんだかわからないもの(原爆)のせいで、悲劇がいろいろな形で出ました。
――戦後の生活は変わりましたか?
「無我夢中でしたね。
9月に入っても、死人が出て、どうにもできなかったです。
落ちている天井を修理しなくちゃというので、みんな自力でやりました。
勉強が出来る状態にしなくては、と。若い男たちはいなかったので、そのほかの残っている者たちでやりました。
今のように市がやってくれるべきだとか、やったら損になるとか、そんなことを言う人はいませんでした」
――損得を考えてしまうんでしょうね、今は、それをやるもやらないも。
「戦争孤児といって、疎開していた子供たちが帰ってきたら、市内が全滅していて家族がみんな亡くなっていたということもたくさんありました。
戦争孤児ということも、隠している場合が多かったです。就職や結婚に差支えがあるということで。
被爆者であることを隠している人もいました。
あのなんだかわからないもの(原爆)のせいで、何が起こるかわからないということで、腫れ物に触るような感じでした。悲劇がいろいろな形で出ました。わからないので。何が何だか。
被爆したといったら、結婚にも関わるようになって。結婚しても、離縁されたり。
長生きしないだろうということは言われていても、詳しいことは何もわからずに、ちょっと元気になると、普通に動いて生活するし。気づかないから怖いですよね。何も知らないから出来たことですね」
――戦後も学校に通われていたんですよね。
「電車も駄目になってしまったので、県道を歩いて学校に通うのに母がポケットに入れて持って行けるような砂袋を持たせてくれました。だんだんと進駐軍(戦後、日本を占領した連合国軍。主体は米軍)が配備されましたからね。20歳の女性なので、もし敵兵が来たら、目をめがけて投げなさい、と。女性なのに男のフリをするために丸坊主にした人もいましたしね。
でもそんなに危険な目に遭うことはありませんでした。遭った人もいたのかもしれませんが、私の周りではありませんでした」
――映画などで見るような、終戦後にアメリカ兵が来て、子供たちにチョコレートをくれた、などということは本当にありましたか?
「私は知りませんが、あったと思います」
原爆ドーム横の川端から
人間の欲望はすごいですからね。人間の耐える力とか、力を合わせる力というのは素晴らしいと思うんですが。
――戦争を知らない世代に伝えたいことはありますか?
「あの頃はあんなに苦しくて、あんなに耐えてきたんだけど、自分から死にたいだなんていう人はいませんでした。それなのに今はなんで自分で死んでしまう人が多いのか」
――たぶん死んだらラクになれると思ってしまうのかもしれませんね。
「戦争に行ったら死ぬというのはありました。弟も16歳で志願して入隊しましたから。
国を守るためという信念があったのでしょうが。
戦争に行けない男子が低くみられてしまう時代でしたからね。生きて帰ることすら受け入れられないみたいな。
送り出すときに死んで来いとは言いませんけど、行ったら死んでしまうというのがありました。
でもそれは今のような自殺とは違いますし。
どういうふうに育てたらいいのか、わからないですね。
あの頃は、生まれて生きていてくれればいいというのがありましたからね。とにかく自分より長く生きてくれというのが」
――今はなんなんでしょうね、もっともっと、というか、私たちは、もっと夢を持て、もっと上を目指せ、ということを教えられてきたんですよね。本当は生きていて平凡でも毎日過ごせていられることが幸せなのに、それじゃダメだと刷り込まれていて、だからそれ以上できないといけないと思っていて、上に行けない人は挫けてしまうというか。
「人間の欲望はすごいですからね。
欲望がいい方向に行けばいいんですけどね。
人間の耐える力とか、力を合わせる力というのは素晴らしいと思うんですが」
――そうですね、耐える力や力を合わせるという点において、日本人は優れていると思います。戦後の焼け野原から立ち上がって、こんな小さな国が、世界でもトップクラスになるくらいに頑張ってきたわけですから、日本人の底力というのはすごいと思います。
「原爆は人間が作ったんですからね。人間が作って、人間が殺されて。
今でもまだその研究がされているから、いつまた同じようなことが起こるのか。
弟はこれからまた広島のために活動していこうと言っていたんですが、寿命でしたね。次々に癌でした。亡くなる前には、子どもの麻疹のように全身に発疹がでました。塗り薬で少しずつ治って、でも最期は気力果てて肺炎でした」
――あらためて戦争について思うことはありますか?
「いつまでも敵味方という関係ではなくて――、
『仇をとって』
と言われたのは忘れられないのですが、それでまたやり返していたら戦いは終わらないですし。平和はこないですからね。
アメリカ人がみんなひどい人ばかりじゃないし、日本を好きでいてくれる人もいますしね。人間同士の付き合いをしていかないと。
人間の恐ろしさはありますが、また素晴らしさもあるし、人間には耐える力がありますから。
とにかく戦争は……、戦争はいけません」
(2014年3月2日)
Part1で私は、
『誰もが嘘を言っているわけではない。それは、その人にとっての真実。』
と書きました。
インタビュー中で文子さんは『あの頃は自殺を考える人はいなかった』と話されています。
しかし石田明さんの著書の中には、
『牢獄のような兵舎のなかで、自殺する兵隊も出てきた』
また被爆後、体調不良に悩まされ、
『これまでいく度、自分の健康を苦に、思ってはならない自殺を思い、死の予感でノイローゼになったことか』
と書いています。
石田明さんは、言えば心配させてしまうようなことは身内にすらお話しなかったということでしょう。
同じ時代を生きた姉弟であっても、「当時の自殺」という同じ事柄についての捉え方、感じ方はこのように違うのです。
そしてどちらのお話も、ご本人にとっては真実なのです。
だからこそ、ひとつの事柄であっても、ひとつのお話だけ聞いて判断するのではなく、その事柄を多角的に、客観的に見ることが必要になるのです。
『瀕死の男の子に“仇をとって”と言われたのが忘れられない、
しかしそれでまたやりかえしていたら、いつまでも平和にはならない』
とインタビューの中で語られていたのが心に強く残りました。
目の前で命の灯が消えていく、その遺された言葉は忘れられない、しっかり受け止めているけれど、それをそのまま表面に出して行動に移していたらまた目の前で起こっている悲劇を繰り返すことになってしまう……、
今、これからの平和な日々を守っていくために消化できない気持ちを抱えて生きていく――、
それは、平和を愛し、維持しようとする人間の中に存在する葛藤なのだと思います。
人間が生きていく上では必ずしも、こうだったからこうする、と計算式のようにしてはならないことがあるのです。
現代の日本は平和ボケしていると言われますが、
今の平和は、どのようにしてもたらされたのか、知ること、知ろうとすることは大切だと思います。
過去に何があり、今自分たちがどこにいて、どんな将来につなげていけばいいのか――、
それぞれの心で考えていくことが必要だと思います。
今回の広島の記事は、書くのも辛く、重いものでしたが、この事実を伝えなくてはいけない、という使命感で書きました。
お忙しい時間を割いて頂き、快くインタビューにこたえて頂いた文子さん、また文子さんをご紹介してくださった西田さんに心より深く感謝しております。ありがとうございました。
このブログ記事が、一人でも多くの方に、1945年8月6日に広島に落とされた原爆について、それがどのような悲劇をもたらしたかについて伝える役目を果たせたのなら幸いです。
<追記>
終戦後の9月、広島は昭和の三大台風のひとつに数えられる枕崎台風に襲われます。当時は気象情報が少なかったことがあり、被爆状況の調査や被爆者の治療のため現地を訪れていた京都帝国大学から訪れていた調査班、治療を受けていた被爆者を含めた約100名が、その土石流の犠牲になりました。
原爆ドーム
インタビューに伺う車中から、広島の空
平和記念公園にて、ムビラ(mbira)を奏でる