ヒロシマ part3

前回に引き続き、
石田明さんの著書をもとにした、石田明さんの実体験をご紹介いたしますが、
読むことで心が傷ついてしまうかもしれないので、
お気をつけて、お読みください。

読むだけで心が痛くなるかもしれませんが、
これは、実際にあったことなのです。

それほど大昔ではない日本に、実際に起こったことなのです。

*******************

昭和19年(1944年)11月、石田明さんは会寧航空隊から岐阜の整備学校へ一年の留学を命じられました。

戦況はますます厳しく、食べるものも満足に与えらえず、隊内からは病人がどんどん出ました。

石田さんの任務は中古の戦闘機を整備して、特攻隊に提供することでした。

特攻隊員は石田さんと同じ16,17歳の少年飛行兵が多く、出陣の予定が知らされると、彼らは酒をあおり、軍歌の絶叫は遅くまで夜空に響いていました。

入隊して1年が経った昭和20年(1945年)5月、石田さんは体調を崩し入院します。退院後、会寧に帰隊することになりましたが、軍医のはからいで、7月30日から2週間、「療養休暇」の名目での帰郷が許可されました。

狩留家(かるが)の地に帰ると、家族は温かく迎えてくれました。

帰って6日目の8月5日の夕食の時に、お兄さんから、
「明日は工場が休みじゃけえ、宮島へ武運長久の祈願に行こうや」
と言われました。

翌8月6日の7時前、お兄さんと石田さんは狩留家駅を出発しました。

7時40分ころ、広島駅に着き己斐(こい)行き市内電車に乗り換えました。

真夏の太陽が高い日で、石田さんたちは満員電車の真ん中に入り、身動きも出来ずにいました。

的場町、稲荷橋、山口町、流川、そして八丁堀。

※引用※
”将軍”姿の仁丹の広告塔を、乗客の肩ごしに見ました。八丁堀の停留所に停車する寸前、
“ピカッ”
青白い光を見ました。一瞬意識を失いました。

石田明さんとお兄さんは、爆心地から750メートルの市内電車の中で原爆に遭いました。

二人は、乗客の真ん中にいたため、奇跡的に無傷でした。

我に返ると、たくさんの人が二人の上に重なっていました。二人は必死に車外に出て、広島駅に向かいました。

真っ暗闇の中、目にうつったのは、家や人、全てが一瞬のうちに路上から消え、炭のように真っ黒に焼け焦げて瓦礫の下に折り重なっている町の姿でした。

逃げていく2、300メートルの間に生き残っている人間を全く見ることはありませんでした。
300メートル余り行ったところで、初めて会ったのは、まっ黒く焼け焦げた小さい子供を抱きしめた、全身やけどをした母親でした。

※引用※
広い車道に 歩道に 瓦が散り 柱がさけ
電柱が倒れ その下にやわらかい
まっくろく焼けただれた人体が
今の今まで いっぱい歩いていた人たちが
声もなく
サンマの黒こげのように ころがっている
男 女 およそけんとうもつかない

8月6日夕方、広島から2つ目の戸坂(へさか)駅まで二人は逃げましたが、
石田さんは嘔吐がひどく、お兄さんに背負われて近くの農家に収容されました。

その夜、先にお兄さんは我が家に帰り、8月7日にまた石田さんを迎えにきてくれました。

家の前で棒立ちになって待っていたお母さんは、石田さんに怪我がないことを知り、安心しました。

8月8日、9日、10日と近所では被爆者の葬式が続きました。

お兄さんは弟を早く部隊に帰すため栄養をとるようにと、暑い真昼間の三篠川に行き川魚やうなぎをとってきました。

8月15日、玉音放送があり、戦争が終わりました。日本は敗戦したのです。

石田さんはお母さんの胸にすがって、「うそじゃ、うそじゃ」と泣き崩れました。

8月17日頃から、石田さんとお兄さんの毛髪が抜け始めました。

“髪が抜けるものは助からん”
という噂がありました。

お母さんは走り回り、治すためのことを全てやってくれました。

8月20日ころには、二人の体中いっぱいに血の斑点が出始めました。

二人は枕を並べて寝込むようになりました。

9月2日、昼過ぎのこと、お兄さんは隣で寝ていた石田さんの右手を左手で力なく握りしめ、
「アメリカに仇を討ってくれよ。お母さん、お父さんのことを頼むで」
と言いました。

最期まで意識が確かだったお兄さんは、
「みんな、お世話になったのう」
と言いながら、息をひきとりました。

石田さんもその後、意識を失い、生と死の間をさまよいます。

意識が戻ってからも、石田さんは病床についたままでした。

しばらくして、枕元にある手鏡を覗き込むと、右片隅に、小さい小さい光を発見します。

それは本当に本当に細い“うぶ毛”でした。

髪が抜ければ死ぬのなら、生えてくれば生きられるのではないか。

お父さんは子供のように躍り上がって喜び、お母さんの泣き声は止みませんでした。

それから少しずつ体力が戻り、昭和21年の6月頃には、優等生だった石田さんに亡くなった教

師の代わりの”代用”教員になる話がきました。石田さんは小学校で高等科一年生の担任になりました。

しかし、また哀しみが石田さんを襲うことになります。

Part4につづく。

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