Part2、part3に引き続き、
石田明さんの著書をもとにした、石田明さんの実体験をご紹介いたします。
昭和22年(1947年)の夏頃から、石田さんのお母さんは寝込むようになりました。過労が原因とのことでした。
敗戦後の物不足の時代、石田さんは月給のほとんどをはたいて山羊を買い、栄養があるその乳をお母さんに飲ませました。
お父さんも妹さんもお嫁に行った、身ごもっていたお姉さんも、お母さんの具合をよくしようと必死でした。
お母さんは自らが死の床にありながらも、家族のことを気遣っていました。
そして、
「孫の顔も見ずに死ぬようなことがあっちゃあいけん」
というお父さんの思いもむなしく、昭和23年(1948年)11月14日、50歳の生涯を閉じました。
“自分が休暇で帰ってこなかったら、
兄も広島に出ることはなく、原爆に遭うこともなく、母も二人の看病疲れで倒れることもなかっただろう――“
石田さんは、罪の意識に胸が引き裂かれるようでした。
広島に投下されたのは開発当初の設計より短くしたためリトル・ボーイ(少年)と呼ばれた長さ約3メートル、重さ約4トンの原子爆弾でした。その爆発によって、広島は壊滅し20数万人の市民は殺戮されたのです。
破壊力の1つめは熱線。
爆心地の地表には瞬間的に数千度に及ぶ高熱が照射され、歩行していた市民は一瞬にして蒸発、溶解しました。
石田さんが被爆した爆心地から750メートルあたりでは、人間が炭のように焼け焦がされました。
破壊力の2つめは爆風。
風圧によって広島のビルは崩壊し、家屋は叩き潰されました。多くの市民は家屋の下敷きになり、熱線により引火した火の海に生身の人間が焼き尽くされました。
広島の7つの川は逃げてきた市民の屍で埋まりました。
破壊力の3つ目は放射能。
石田さんとお兄さんは無傷だったにもかかわらず、放射能の影響で頭髪が抜け、血を吐き、内臓を破壊されました。
お兄さんは9月2日に亡くなり、生き延びた石田さん自身もその後、健康の喜びを味わったことはありませんでした。
※引用※
人間は追いつめられたときにこそ、その本性があらわれるといいます。これまでのべてきたように、ヒロシマの母があの生地獄のなかでけっして放棄しなかったものは、自分の生んだ命を大切にし、その命をまっとうさせ、人間らしく育てたいという“愛”でした。まさにこの生地獄のなかで、ヒロシマの母たちは人間としての価値を実証したといわなければなりません。
ヒロシマの母に学び、そこから学んだヒロシマの心、願いとは何か、
石田さんは次のように書いています。
第一に、人間の生命の尊厳。
人間の生命がこれほど冒涜された事実はありません。
第二に、人間の生きることの意味をきびしく問い詰めたこと。
人間が作り、人間が投下した原爆に人間が犠牲になりました。
人間にとって科学や技術が、人間が滅亡するものであってはならない、より価値高く生存しぬくための営為でなければならない。
第三に、人間の愛。
石田さんは劫火の中を逃げまどいながら、教え子をかばい命を絶って行った教師たち、わが子を守るためにわが身を捨てた母親、父親たちを見ました。
原爆と言えども、人間の愛は消し去れなかったのです。
戦前の教育は生命の大切さなど教えなかったといいます。むしろ「死」を賛美したものでした。
そういった教育を受けた石田さんは16歳にして少年航空兵に志願し、戦場に行って手柄を立てようと思いました。
子育て、教育は、その原理、思想を間違えると、人間を野獣にしてしまうのです。
石田さんは、教師として子供たちと共に学び、“学級総会”を連日開き、そこから得た素晴らしい生き方を「学校憲法、人間宣言」として制定しました。
「学級憲法、わたしたちの人間宣言」
一、わたしたちは人間です。ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために、しっかり働きます。
一、わたしたちは人間です。みんなでしっかり学び、しっかりと話し合い、考え合い、ほんとのことをつかんで、そのために生きます。
一、わたしたちは人間です。働くことを大事にし、人間のしあわせのために一生懸命働きます。
一、わたしたちは人間です。人間にとっていちばんすばらしいことをやりとげるために、力を合わせて前にすすみます。
一、わたしたちは人間です。友人を最も愛します。ですからそのまちがいを最もきびしく、はっきり批判します。
一、わたしたちは人間です。かげでこそこそいいません。はっきりものを言い合います。
一、わたしたちは人間です。なぜ、どうしてとくびをかしげて毎日生きています。
一、わたしたちは人間です。差別は絶対にゆるさず、手をつないで生きていきます。
一、わたしたちは人間です。けっして暴力をゆるさず、それにくじけず、みんなで抵抗します。
一、わたしたちは人間です。戦争はいやです。平和を愛します。
※引用※
ヒロシマの母たちは、人類最初の核戦争によって、生きることの大切さ、命の大事さを叫びながら死んでいきました。この本のテーマである「ヒロシマの母の遺産」とは、けっして貨幣やダイヤモンドなどのような、かたちのある財産ではありません。しかしそれ以上に、はるかに重要な、たった一つの人の子の命をまっとうしようとする、母親の人間としてのたたかい、願いなのです。子どもたちを幸せにしてやりたいという親心こそ、わたしたちに、ヒロシマのあの悲惨のなかで、たったひとつ消えることなく残してくれた偉大な財産です。
(中略)
わたしたちは、人間として、その生命の尊厳をまっとうするために、子どもたちに“平和”な未来を保障しなければなりません。
(中略)
わたしは、ヒロシマの母の偉大な“愛”をすべての人間の胸に宿し、燃焼させるように、これからも訴えつづけていきます。なぜなら、人間の“愛”の灯が消えたとき、消されたとき、人類は、戦争へ、破滅へと追いやられるからです。
石田明さんは被爆後ずっと体調不良に悩まされながら、2003年に亡くなりました。享年75。
(次回は石田明さんの実姉、文子さんへのインタビューをご紹介します)