アーティストのワカさんにお話を伺いました。
☆ワカさんプロフィール☆
1979年宮城県生まれ。幼少は岩手県盛岡市で過ごす。
3女末っ子で、ノビノビ育てられ、子供の頃は男の子になりたいくらいわんぱくだった。
高校から本格的に美術を学び、高校卒業後、文化服装学院(服飾専門学校)にて洋裁を学ぶ。
卒業後アパレルメーカー勤務。夏休みで訪れた屋久島で音霊の声を聞き、音楽の道を志すことを決める。
2003年マリ共和国に半年ほど滞在し、国立舞踊団べー ファインケにジェンベを師事。
2005年に訪れたジンバブエで、ンビラに出会い、ガリカイ・ティリコティ・ファミリーに師事。
双子の母。マズィタテグル、パチジガレンビラズ所属。
ワカさん作のビーズ作品
Contents
初めてのジェンベのセッションで、すごい音が聴こえてきたんです
――専門学校では、どのような勉強をしていたんですか?
「最初の1,2年は基本的な服の作り方を学び、3,4年で自分の制作をしました。
みんなが仮縫いの後、捨てるシーチングという布を拾って集めて、帯状に切り裂いて、それを編みこんでその端を縫って形にして洋服にしたりしていました」
――それはどういうコンセプトだったんですか?
「捨てる布を拾って再生するというコンセプトで、人がやっていないことをやりたいという気持ちで制作しました」
――オリジナルなものを求めているんですね。旅もたくさん行かれたんですよね?
「旅は好きで、いろいろな場所へ行きました。
高校卒業した後は岩手の海岸を旅したり、専門学校の時はヨーロッパ、インド、ネパールなどに短期で行きました。
ネパールに行った時に知り合った人に、屋久島はいいよという話を聞いて。社会人になった夏休みに念願の屋久島に行ったんです。
旅人が集う公民館に泊まって、そこで初めてジェンベ(西アフリカの太鼓)に出会いました。管理人さんもみんな音楽好きで、私も初めてジェンベをやって、みんなでセッションをしたんです。そしたら、すごい音が聴こえてきて」
――合わさった音がすごかったんですか?
「そう、その楽器ではない音が聴こえました。“音楽をやりたい!”と、そこで初めてアフリカの音楽をやりたいと漠然と思い始めました。
ちょうどその頃、お父さんの仕事の都合で南アフリカに住んでいる友達から“遊びにおいでよ”と言われたんです。どうせ行くなら太鼓の勉強をしたいなと思いました。南アフリカに行った後、出発前にアースディで知り合ったマリ国立舞踊団を紹介しているNGOの方にマリ(マリ共和国:西アフリカの国)を勧められていたので、マリに行きました」
――マリではどのように過ごしましたか?
「マリの国立舞踊団の一人でジェンベをやっている人に、彼らが練習する公会堂のようなところで半年くらい習いました。じっくりリズムに浸って過ごしていました」
――どこに滞在していたのでしょう?
「一人でアパートを借りて、生活も楽しみながら、週3くらい通って習っていました。マリも旅人が通るところなんですが、たまたま出会った日本人――名前を忘れてしまったのですが――、がムビラを持っていたんです。そこで初めてムビラを見ました。その時は、特にやりたいとは思っていなかったんですが。
でも、これは後からわかったことなんですが、実はその時出会った日本人が、トンデ(ワカさんの旦那様のムビラプレイヤーのトンデライさん、ムビラの巨匠ガリカイさんの長男)の持っている写真に写っているのを発見したんです。その人はガリカイ家に滞在したことがある人だったんです。その時、いろいろつながったなと思いました」
ヨハネスブルグでは強盗に遭いました
――そこからまた旅立つんですよね?
「マリから日本に一度帰ってきました。旅行資金も無くなったので、仕事をして貯めました。
最初に行った南アフリカは合気道も盛んで、私は合気道をやっていたのですが、その稽古の場で知り合ったロシア人からビジネスに誘われていたんです。いろいろなビジネスをやっていた人で、私は服飾デザイナーのアシスタントをやっていたので、そういうことをやってみないかと言われました。
でも結局、二回目に南アフリカに行った時には、その人は姿を消してしまっていて、会うことは出来ませんでした」
――どうしたんでしょうね?
「他の人にも声をかけていて、お金の問題もあったらしいです。貸していた人もいました。ロシアンマフィアだったんじゃないかという噂も聞きました」
――アテにしていた人がいなくなってしまったんですね。
「はい。それで、とにかく南アフリカで何か仕事が出来ないかなと思ったんです。その時は合気道の稽古仲間のニッキーという女性――すごく強い人で、一人でヨハネスブルグの真ん中で暮らしているような人なんですが」
――えっ、危険じゃないんですか?
「一緒に住まわせてもらったんですが、慣れれば過ごしやすいところです」
――そうなんですか。怖い話しか聞かないような。
「怖いというのは、いかにもお金を持っている日本人が、ひょっこり行っちゃった場合ですね」
――全然危険な目には遭いませんでしたか?
「強盗には遭いました」
――えっ。
「三人くらいかな、男の人。一人がナイフを持っていて、電話をよこせ、と。シムカードを抜けば売れるので。でも私、電話を持っていなくて。お金もあまり持ってなかったので、諦めて去って行きました。
あとはスリに遭いました。電話を持ってなかったので公衆電話で電話していたら、脇から盗られて、電話代が無くなりました」
南アフリカはビーズワークが盛んで、近くの博物館に毎日のように通っていました
「やっとのことで、ビーズの手縫いの仕事を見つけました。仕事とは言ってもお小遣いを稼げる程度で、一週間以上かけてビーズの帯を10m作って300ランド(約2100円)でした」
――ビーズは誰から習ったんですか?
「独学です。南アフリカはビーズワークが盛んで、鮮やかだし造形も細かくて、それに魅せられて、近くの博物館に毎日のように通っていました。3か月経って、ビザが切れるので、一旦、隣の国のジンバブエに行こうと思いました」
当時のスケッチ
――隣の国ならどこでもよかったのに、たまたまジンバブエだったんですか?
「ジンバブエは音楽がおもしろいと聞いていたので。
でも、ニッキーにも周りの人にも、ジンバブエには行かない方がいいと言われました。危険だとか、物がないとか。
でもジンバブエ人のおじさんに聞いたら、いいところだよ、と言われて(笑)」
――南アフリカの方が怖いイメージがありますよね。ジンバブエに行く時に、ムビラを習おうと思っていたんですか?
「習おう思って行ったわけじゃないのですが、泊まったパームロック(ジンバブエの宿)に、旅人の情報ノートがあったんです。ムビラを習いたいならここ、とガリカイさんの電話番号が書かれていて。迎えに来てもらって、ガリカイさんの家に行きました」
――ガリカイさんが迎えに?
「トンデが来てくれました。その時が初対面でした」
――その時には習おうと思って?
「情報を見た時に、習いたいと思いました」
――女性のプレイヤーは少ないと聞きましたが。
「女性のプレイヤーもいますけれど、ジンバブエの女性は家事が忙しいのでやる暇がないんですよね」
――行って、早速習い始めたんですか?
「行ったらマホロロ(ムビラのチューニングの一種)が10台くらい並んでいて、どのチューニングと選ぶこともなく、マホロロを習いました。2週間くらいしかジンバブエにはいなかったんですが、ちゃんとムビラを習いたいなと思って、南アフリカに一旦戻って、日本に帰ってきました。お金を貯めてまたジンバブエに行きました」
――その時には既にトンデさんとは結婚することになっていたんですか?
「最初に行った時に、そういう話は出まして、私は本気になっちゃいました(笑)」
――日本に帰っていた間は連絡を取り合っていたんですか?
「メールや電話をしたり、小包を送ったりしていました」
ビーズ作品
自分の基準とはかけ離れたことをしている人がいても、あまり振り回されないようにしようと思っています
――二度目のジンバブエの時は結婚していたんですか?
「結婚するかしないかを決めにいったようなところもありました。本当にやっていけるのかどうか。いろいろありましたが、結局離れられなくて」
――国際結婚をして気づいたことはありますか?
「思うのは、違う過ぎるものでも、自分の理想を押し付けたりすると相手も辛いし、結局自分に返って来て辛くなるから、そういうのはやめようかなと」
――もっとこうして欲しいとか、こうして欲しくないとか。
「そう、今、日本にいて日本の基準があるんですけど、でも彼にとっては違うんですよね。アフリカで育ってるから。文化が違うし。
夫ではなくても、自分の基準とはかけ離れたことをしている人がいても、あまり振り回されないようにしようと思います。異文化コミュニケーションというか」
ビーズ作品
――今後の抱負はありますか?
「自分の作品作りに関しては、今まで吸収してきたもの(服飾、ビーズ等)をまとめて表現していく作業に取り掛かると思います。
実は人生を通して、ほんとうにやりたいことは、制作活動です。
私は15歳くらいから本格的に制作を通して自分を表現してきました。
その制作というのはきわめて個人的な作業で、服飾の専門学校で学び、服を通して表現もしましたが、
それも個人的作業でした。
屋久島でジェンベに出会い、合奏し、私は人と音を作り出すことの気持ち良さを知り、
アフリカの楽器への探求へ入り込みました。
そしてムビラに出会い、確信しました。
グルーブを仲間といっしょに作り出す喜び、心地良さ。それによって自分自身、そして聞いている人達の精神も解放し、みんなの気持ちを繋げる。
人は孤独ではない。一人一人別々のようだが、木の葉が一つの木で繋がってるように、人も繋がっている。
個人作業で自己表現をばかりしていた私にとってムビラは人との繋がりを強く感じさせてくれるものでした。
今は子供達(現在5歳)が私が演奏するとさびしい、とのことで公の場での演奏は休止することに決めました。
子供達が理解してくれる年齢になるまで待とうと思います。
今は母親の役割が大切です。
そのうち時期がくれば、制作や演奏できる時間が増えるのかと思います」
写真左:ワカさん
(2013年1月14日)
(2014年6月11日加筆)
女性として、人間として、母親としても輝いていますね^^
(余談)
インタビュー当日は大雪、編集の日は大雨。
嵐を呼ぶ(?)私たちなのでした(笑)